◎  信心は本当の本当を分かれ。商売も繁盛しとる健康であると同時に、心のおかげの田地そのものも、いつも本当な事を分からしてもろうて、本当の事を追求してゆく心がいつも有り難い方へ有り難い方へと、コロコロと心がかえていけれる様な稽古がでけて、繁昌であり健康であるとゆう時に初めてそこに人間の幸福がある。

%1 昼行灯と言われた大石蔵之助
%2 合楽の場合、昔から女の方が強い人が多いと言われた。
%3 心のスピードアップを願えとは。
%4 勤める会社の繁盛を願うという前に、もっと本当のことを分からねば。
%5 ある方のことを願った。おかげが一週間ぐらい続いた。追い願いをしたら・・。
%6 ご飯も副食物もある本当のおかげ。
%A おかげを頂くとは、ご飯だけでなく、そこにおかず、副食物がいる。
%B 追い願いに対しての神様のお言葉
%V

昭和四十三年七月二十三日 朝の御理解


X御理解第八十六節 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば、貴いものが出来ぬ。女は家の家老ぢゃ。家老が善うなければ、城が持てぬと云うが、女が善うなければ家が持てぬ。」


 女性の人がそこのところを考えておかなければいけませんね。一応自分は善い家老になっておるだろうか、善い田地になっておるだろうか、家老としてのいうならば殿様に対する為のよい家老であろうか、女の為に家が治まると言われておるのに家が治まっておるであろうか、女の為に家が乱れておるような事はないだろうかと、まぁいろいろに私は検討してみて、女の方たちがしっかりしてもらわんと、城の繁盛も家の繁盛も又はおりあいも出来んのです。

 女の人がしっかり信心の稽古をさして頂いて、いわゆる昨夜の御理解を頂きますと偉大なる馬鹿に阿呆にならなければいけません。昨夜大きな信心とゆう事について頂いたんですけれども、確かに大きな信心とゆうのは、偉大なる馬鹿と阿呆になる事ですね。女が賢くても、かえって家は持てません、いよいよ信心によって大きな馬鹿と阿呆にならなければいけません。

 %1まぁいうならば忠臣蔵の大石蔵之助は、昼行灯と云われる位に、おってもおらんでもいい様な存在であった。けれどもいよいよの時には、その人、大石蔵之助がおらねば出来なかった様に、やはり昼行灯的なものが偉大な馬鹿の内容になからなければならない。いかにも不必要のごとありますけれども、いよいよ薄暗うなってきますと、いよいよその行灯の値打ちが上がってくるような女性でなければいけないと思います。私はどうでもそうゆうおかげを女性の方達には頂いて頂きたいと思います。いわゆる後ろ祈念です。主人が外にでるなら後ろから主人の事を一生懸命に祈る、いつもいうなら縁の下の力持ちである。
 「女賢うて、牛売りそこなう」とゆう言葉があるが、女性の方が本気で家の中では汚い事いやな事は一切私が引き受けたといった女性である事を願いとして信心させてもらわにゃいけん。「もうそげな事はお父さんには、言いなさんな」お父さんが外に仕事に出るのに邪魔になるというような事は、いうならばそのように自分の心ひとつで治めていくといったような事でそこにです、私はいよいよ女性が肥えていく、世界の田地である。

 それでいて、女の実技というのは、そうゆう馬鹿と阿呆で田地を肥やしておかねばとおっしゃる子供なら子供は、主人なら主人は、家内がおらねば家はもてんと思う。子供は子供でお父さんというよりは、やはりお母さんといったような家庭でなからなければね。

 %2合楽の場合ね、昔から女の方が強い人が多いと言われた。とりわけそこのところを本気で精進させてもらわなければならないという事になりますね。もうこれは合楽の人というて、合楽の女性に限った事ではないでしょうけれども、そのように世の中には、やはり女の偉い人が多い。偉い人じゃもん、馬鹿じゃない。阿呆じゃない。大きな信心、こうゆう風にしてまいりますと、この八十六節には、女の方に対する御理解がずっーと続いておる。八十五節も女の月役、妊娠、つわりの事から説いておられて、そして八十六節は、女はいよいよ世界の田地であるからと田地を肥やしておかなければよいものが生まれない、という風に女性の信心というか女性のあり方を説いておられます。

 そこで私が思うのは、今迄女性の方に申しましたような事ですけれども、御理解を少し深めて行きますとね、ここの女は世界の田地であるからというところを心はおかげの田地であるというふうに頂かなければならないと、おかげの田地を肥やしておかねばよいものが出来んとゆう風に、よいおかげは受けられんとゆう事になる。心はおかげの家老格をつとめる様なもの、心がようなければ城が持てぬ。

 %A『私は今日御祈念中に、おかげを頂く、ままになるとゆう事は、ここに御飯があるとゆうことだけではいけん、やはり副食がなからなければいけん、ですからここで云うおかげとゆうのは副食の事。只ままになっているという事は、例えて云うなら健康であるとゆう事。健康がままになっておるとゆうわけですよね、商売がどんどん繁盛していると云うのは商売がままになっているわけですよね。ところが商売が繁盛しておるだけ、健康であるとゆうだけで幸せでないとゆう事が分かる。それは御飯だけではおいしくない様なもの。やはりそれにはお吸物もいるだろう、お煮付けもいるだろう、お刺身も、おつけものも、そこに御飯をおいしくする為に副食が必要な様に、只自分の思い通りの事が成就したとゆう事だけではおかげでない事がわかります。

 %3そこでいよいよ、ここでいう世界の田地というよりおかげの田地を肥やしておかねばなりません。いわゆる心を肥やしておかねばなりません。自由自在に自分の心が使いこなせる稽古をしておかねばなりません。自由自在に心が使いこなせねばなりません。しかも、それが本当なことが分かって、本当なことを悟っておらんと、自由自在なことが心に使いこなしが出来ません。本当なことが分かっておっても、これはこうだと分かっておっても、心が承知しない、心が動かない、稽古不足です。心が自由自在に本当な方へコロコロとかえていかれる、いわゆる心のスピードアップを願えとは、そうゆう事だと思う。それにはまず、只思い替えをしておくだけではいかん。本当な事が分かって思い替えしなければなりません。

 %4昨日ある方が御参りしてきて、「どうも近頃会社が不振で給料も三か月程遅れておる、家内の内職で今のところ、なんとかなっておるが、どうぞ給料が早くもらえますように」とゆう訳である。「その為には会社の繁盛を*だから今の様な会社じゃつまらんから、他の仕事のお繰り合わせを頂きたい」とこういう訳なんです。

 %4はたして、かわったからと云うておかげになるだろうか、それよりも現在働いておる、その会社の給料でも払える様に、赤字が黒字になるようなお繰り合わせを一心に願うがいいと申しました。それから先がです、本当な事が分かっとかにゃ出来ん、会社が不振であるから、自分が困るのじゃない、自分が困らなければならないとゆう元はほかにあるんだとゆう事。ゆうならば運命とゆうのはついて廻るもの、この会社に勤めておれば不自由するからというて、そんなら他の会社に勤めかえてもです、やはりよし、そこで給料は多かったにしても、やはり金に不自由する運命はついて回るとゆう事、それが本当の事なんです。

 %4ですから、運命そのものをです、切り替えさせてもらえるおかげ、いわゆる、会社の繁盛を願うとゆう事も、願わなければおられんのであり、本当な事なんです。けれどもそれよりも、もっともっと本当なことは、その会社に勤めておるからお金に不自由しとるのじゃない、不自由しなければならない元は、こちらにあるんだと。これが一番本当な事。だから買い主の事を願わんでもです、ゆうならばこちらが立ち直れば、会社がちゃんとおかげになってくる。

 %5%B『先日もそれと良く似た様な事があった。ある方の事を私が願ったのです、そしたらその翌日から早速そのおかげになってきた、そのおかげが一週間くらい続いたでしょうか、又元に戻った。そこで私は又その事について、追い願いをした。「どうぞおかげをいただかして下さい」と、そしたら神様が「もう追い願いじゃいかん」と、会社の繁盛を願っただけじゃいかんと、所謂本当な事を分かれとゆう訳なんです。「お前自身が改まれ」と頂いた。おかげのしるしが見えてきた、だからその事を願いさえすりゃいいとゆう事じゃいかんゆう事がわかります。

 %5%B『いわゆる、私が云う本当な事とゆうのは会社が不振であるから、自分が給料をもらえずに困っておると会社が悪いからじゃない。けれども、会社が繁盛すりゃ給料ももらえるから願った。願ったら、おかげで給料ももらえた。もらえたけれどもあくる月は会社は不振におちいっておった。そこで、又、願ったところが、ところがもう、それは会社の事を願ったんじゃ駄目だ。「もっと本当の事を追求せよ」より本当の事と云うのは、不自由をしなければならない。その元とゆうのは、お前の方にあるのだ。だから「お前が改まれ」とこう云うのである。だから、私はその事の追い願いをやめた。そして、私がある事を改まって願った。ところが、やはりおかげにはならなかった。そこで、又、その事を神様にお伺いさせて頂いた。

 %5%B『「追い願いをした、おかげをいただいた」又、そのおかげが、不振になった。そこで、追い願いをするのは間違いでその時にはもう、願う者自信が改まって願う。それでもおかげにならなかった。その時初めて、改まってお願いしてもおかげを頂けない。これは、いよいよ「神の願いが成就しておるのだ」とゆう事。神の願いが成就しておるとゆうのは、いよいよ、神様の御都合じゃとゆう事。ですから、そこのところは、泣く泣くでも辛抱しなければならないとゆう事である。その辛抱しぬいておるうちにです。「あぁこうゆう神様の御神意があったのだ」とゆう事が後で神様のおかげと言う事が分かってくる。

 だから、願いにも願いだけじゃいかん事が分かる。いわゆる、今日申します「世界の田地」ここの所を「心はおかげの田地」と私が申しました。そうゆう様な生き方の中にいよいよ心の田地がです、肥えていきよる訳です。心に根肥やしをしよる。

 昨日の御理解の中にも「生きたくば、神徳を積みて長生きをせよ」とそうゆう、御神訓を元にして頂いておるのが、「(夏期信行ミニご理解)柳に風折れなし、弱い人は特に体を大事にするからかえって長生きをする様に信心をすれば心を大事にするから、長生きが出来る道理である。云いかえると億万長者になりたくば信心して長者の徳を受けよとも云えるのである。信心して心が美しくなると何事にも心にさわらん様になる。腹も立たねば、心配もせんで済む様になるのである。腹も立たんで心配もせんで済むので長生きも出来よう。金もたまるとゆうのである。」

 そこで、今朝の御理解から頂きますと、腹が立ったり、取り越し苦労をしたりしたとゆうのは、ほんとうな事を分からして頂いたら自分はこん位な事だな、この位の事で腹が立つ、この位な事が心配になる。いわゆる偉大なる馬鹿と阿呆になってない証拠にです、自分が腹が良いからと云うのではなく自分が腹が悪いからと分からして頂くのが一番本当な事なんです。腹がよくないから当る。それで自分の腹の悪い所を分からしてもらうて、腹の悪い所を改まって願うていかにゃいかん。

 繰り返し繰り返し限りなく美しくなる事に焦点をおいて願っていく。そして、なおかつそれがままにならんとするならばです、それこそ「神の願いが大きく成就しておる時」であり、同時にこれは、いよいよ神様の御都合に違いない。こうゆう様な頂き方の中に世界の田地は、いよいよ肥えていく、いわゆるおかげの田地は、いよいよ肥えていく訳なんです。

 %6%V女が善うなければ家はもてんとゆう様に、私共の心の田地がです、段々肥えて太っていく、腹もたたん様になりいわゆるさわらん様になり、例えさわってもそこにスピードアップを願っていく、心の切り換えをすぐ願える。それは、本当の事が分かっておるからさっさと心のスピードアップが出来ていくのである。いわゆる、心の切り換えが出来ていくのである。

 %6%Vいわば善い方へ善い方へと自分の心をコロコロとかえていく事が出来るのである。そうゆう心の稽古が出来てから、そうゆう稽古をする事が本当だと悟らしてもろうて、そうゆう心の上におかげを頂いてから、いわゆるままになるとゆうおかげを頂いた時初めて白い御飯と副食がそろうた時なんです。唯、自分の願い自分の思い、唯、健康のおかげを頂いとる、唯、商売が繁盛しておるとゆうだけではね、それは、丁度米の御飯を食べておる様なもので、それだけではあまりにも、味気がない。それに吸物もついとる、魚もついとる、それであって初めて本当なおかげが受けられると思うのです。

 %Vそれには、例えば商売も繁盛しとる健康であると同時に、心のおかげの田地そのものです。いつも本当な事を分からしてもろうて、本当の事を追求してゆく心がいつも有り難い方へ有り難い方へと、コロコロと心がかえていけれる様な稽古がでけて、繁昌であり健康であるとゆう時に初めてそこに人間の幸福では*。そこんところをです、私は「偉大な馬鹿になれ」とゆうのです。そこんところがです、「女が善うなければ城ががもてぬ。心が善うなければおかげがもてぬ。頂いてもそのおかげで幸せになれない」とゆうのである。とうぞひとつ心の成長を願っての心が肥えていく事が願いとしての信心がなさなければならなんと思いますね。どうぞ